ニマイニタイの歩み

ホームページのリニューアルオープンを機に、ニマイニタイが辿ってきた歩みを振り返ってみたいと思います。代表の廣中が初めてインド・ビハール州を訪れてから10年。さまざまな人と出会い、試行錯誤しながらも現地の人々とともに歩んできました。これまで経験して考えてきたこと、そしてこれから挑戦していく道についてお伝えします。

はじまり

2006年、ニマイニタイ代表の廣中が大学卒業する年の夏に、マザーテレサの活動したコルカタを目指し、首都デリーからコルカタにむけてインドを旅しました。その旅中に訪れた村のひとつがビハール州ブッダガヤ、スジャータ村。その時にであった孤児院(ほとんどは父親を亡くし親族に預けられた子どもたち)で暮らす子どもたちとの出会いがきっかけとなり、大学卒業後も会社員として働きながら、毎年短期休暇を利用して、子どもたちに会いに、ブッダガヤを訪れるようになりました。
短期滞在を繰り返す中で、この地に暮らす人々とこれからも継続的に関われることはないかと考えはじめていたころ、村の女性たちの中で裁縫を習いたいという声があがり、小さな裁縫教室で布が買えずに新聞紙を布代わりにして新聞に針を通し、小さなミニチュア版の洋服づくりを練習しているのを目にしたことがありました。「この村で日本向けの製品を作り、雇用を作ること。そうすれば私自身も村に長く滞在できるし、唯一私にできることかもしれない。」そう思いたち、2009年、幼い頃からなじみのあったテキスタイルや、フェアトレードの会社での洋服・雑貨の販売経験を生かして、村の女性たちとストールや布小物の製品を作りはじめました。
短期的に制作を重ねる中で、すぐに課題にぶつかりました。短期の滞在では村の状況は分かったようで何も分からない、自分の費やせる時間にも限界が見え、やるならば独立してやる必要性があると感じました。その後、新聞の広告で見つけたISB公共未来塾というビジネスプランコンペティションに応募し、事業のプランをかため、起業資金を支援していただけることになりました。資金を元に、2012年合同会社nimai-nitaiとして法人登記し、事業として活動がはじまりました。

起業から3年まで

nimai-nitaiとして正式にスタートしたのは、2012年の9月でした。時を同じくして、スジャータ村周辺の村の女性を対象に、ソーイングセンターも設立されました。
ソーイングセンターは、日本からの寄付で建てられたセンターで、設立までニマイニタイも運営資金集めに協力し、インドの他の地域で運営されるNGOの視察などにいき、運営づくりのヒントを現地に伝えながら、一から組織づくりを試みました。
起業してから3年間は、一年のうちインドに6ヶ月、ブッダガヤの村には3~4ヶ月滞在して組織運営と、製品作りを行ってきました。
現地に滞在する期間が長い分、生産も現場に張り付いて行えるので、製品が完成されるまでの過程がとてもクリアにでき、「誰」がつくったものか個人単位でわかるような仕組みをつくり、生産の品質も確実に上がってきていました。
3年目の2014年冬からは、これまで友人・知人の助けを借りながらも廣中がほぼ一人で運営してきたニマイニタイでしたが、新たにヒンディー語が堪能な梶谷と、リシュケーシュ出身のKARVEENがスタッフとして加わり、現地でのコミュニケーションなどより円滑になり、デザイン面も直線縫いに限定していたものから、少しずつよりこだわりのある製品作りができるようになりました。
一方で、現地に長期滞在することで、ひとつの疑問が常にのしかかっていました、
「貧困とは何か」「支援とは何か」
女性たちひとりひとりの成長は見受けられるものの、組織としての成長が進まない。
現地ソーイングセンターのあり方や、ビジネスとしての取り組み方について考え直すようになりました。
ところが、目標が定まれば定まるほど、現地の事を知れば知るほどに、“資本を多く集めれば成功する”、という現地のスタッフと意見の相違が生まれるようになり、話し合いを重ねても平行線を辿り、この土地柄独特のもどかしい状況が続いていました。
この土地を長く研究されている方のアドバイスを受け、仏教の聖地という土地柄、ビジネスという概念を共有することが難しいということを痛感することになりました。
「もう一度、全て一から考え直そう。やり直さなければ。」 起業から4年目に入る2015年の冬、決断しました。

再出発に向けて

2016年2月、これまで一緒に仕事をしてきた女性たちには、これまでの事情と体制基盤を整えたいという話をし、一度生産の活動拠点としていたスジャータ村のソーイングセンターから撤退することにしました。
そして、2016年ブッダガヤでの再チャレンジ。 まずは、拠点づくりから見直していくことから始めました。
男性リーダーが育たなかったという失敗から、女性たちが自分たちの意思で運営できるゆるやかな仕組み。
資金を集めることが私たち日本人の役割=“与える側”、村人たちは“受け取る側”、そんな関係に落ち入ってしまっていたこれまでのやりかたを根本から見直すこと。
村の人自身のやる気を引き出したい。
長い歴史の中で当たり前になってしまった「支援」という名の、自立心を欠いてしまう流れを変えたい。
自分の力で汗水たらした努力で、生活の基盤をつくれることを感じてほしい。
「君の考えていることは夢のまた夢。ここの土地柄では絶対に無理。」という言葉もはっきりいただいたこともありますが、最後のチャレンジをしてから確かめたい、そう思っています。
そんな覚悟で、2016年11月からまた一からスタートしはじめました。

再出発はインドと日本の拠点づくりから

2016年は、ブッダガヤでの雇用について、また支援の在り方について一から考え直し、あらゆる観点から再出発に向けて動き出した年となりました。
まず始めたのはインド、そして日本での拠点づくりです。何よりもまず日本でのアパレル事業を軌道に乗せることが重要だとの思いでした。2016年夏よりインドでの住まい兼アトリエ(仕事場)を探していくつかの不動産を廻り、ようやく首都デリーのsaket(サケット・利便性や安全性が比較的良く、アパレルブランドの拠点も多いエリア)という場所で、現在のインドでの住まい兼仕事場となる3LDKの部屋を借りました。
次に必要なのは縫製職人(インドでは縫製業を営む人をテーラーと呼ぶ)。
以前に外注したことのある縫製工場で、誰よりも責任感があり腕の良かった男性テーラーのカリムさんに「一緒に働いてくれませんか?」と依頼したところ、「喜んで働きたい!」と嬉しい返事。すぐに一緒に働くことが決まりました。テーラーさんは1人では足りないため、カリムさんに「あなたの他にもう一人腕の良いテーラーを紹介して欲しい」と頼んだところ、勤務初日に奥さんであるリナさん(同じくテーラーの仕事をしていた)を連れて来てくれました。
そこから現在に至るまで、製図パターン、縫製、サンプル製作等、服作り事業の中核となる作業工程をこのデリーのアトリエを拠点に進めています。デリーのアトリエができてから、テイラーのカリムさん、リナさん夫妻のおかげで縫製ラインは徐々に安定し、これまで出来なかったデザインや技術の洋服も製作できるようになってきました。nimai-nitaiの基盤を支えるかけがえのない頼もしい人たちです。
デリーの拠点を作った同年9月には、日本での拠点も京都から滋賀・近江八幡の古民家に移しました。「なぜ滋賀なんですか?」とよく尋ねられますが、特に吟味を重ねて決定したわけではありません。そのお家を借りていた友人夫婦がとても素敵な暮らしをされていたのを見ていたことと、姉夫婦が滋賀に移住したことも重なり、洋服作りに集中できる環境があるように感じたのです。地理的なことや不慣れな土地に対する不安などは全くありませんでした。
さらに、団地育ちの私にとって一軒家への憧れもありました。母屋・離れ・蔵があり、それぞれを住居・仕事場・撮影場所に用途を分けていますが、京都では同じような家賃でこのスペースを持つ場所はなかなか見つけられなかったでしょう。
ただ、1年の半分をインドで過ごし、日本では全国の展示会行脚…という私ですから、2年を過ぎたあたりからようやくこの土地への愛着が湧いてきたところです。近江八幡とブッダガヤは、どちらも観光地でありながらも伸びシロがまだまだありそうなところがなんだか似ていて、親近感を感じています。
デリーと近江八幡の拠点を構えた翌年の2017年3月には、ブッダガヤの市内でいつもお世話になっているゲストハウスの半地下スペースを借りることができ、nimai-nitaiのブッダガヤ拠点もできました。その間の1年間は、ブッダガヤへ通うきっかけになったNGOが運営するスクールの事務所を仮の事務所とさせてもらい、アウトカーストの人々が暮らすブッダガヤのハティヤール村に滞在する時間が増えました。

オーガニックコットンへの挑戦

インド・日本の拠点ができたことで、当然のことながら固定費も増え、資金繰りは余裕がありませんでした。そこで融資の道を探ります。
起業家への融資は様々な分野で行われており、事業や活動内容に応じて審査ののち融資が受けられることがあります。
nimai-nitaiでは、社会事業家の活動を応援するため無利子・無担保で融資をされている信頼資本財団の審査が通り、融資を受けることが決定しました。しかしすんなりと決定した訳ではありません。
この融資を受ける過程において、今後の事業の在り方を見直すきっかけとなった事業の矛盾点を指摘されたのです。
大きな矛盾点は、素材となる“コットン”でした。
事業を拡大していく中で、「人・モノ・環境」全ての観点から、良い影響を与えるものであるべき。そのためには、農薬を使う“コットン”を無農薬の“オーガニックコットン”へ切り替えるという挑戦をしていくことが融資の条件としてあげられたのです。
素材の探求をしていくと同時に、自分の創り出したい“洋服”はどんなものなのか、またどんな可能性があるのかを改めて深く追求した年でした。
しかし実際のところインドでオーガニックコットンを栽培する農家はほんの数件しかなく、取引の依頼はしたものの、どこも私たちのような極小企業には対応してくれるところがありませんでした。なんとか打開を図ろうと、nimai-nitaiの洋服づくりのために手紡ぎ・手織りのカディの生地を発注している西ベンガル・ムルシダバードの職人に相談したところ、「我々がオーガニックコットンのファイバーを仕入れるので、nimai-nitaiが毎月決まった量のオーガニックコットンカディを反物で仕入れる」という提案をいただき、翌2017年春コレクションより一部のカディ製品をオーガニックコットンへ切り替えることが実現しました。
「nimai-nitaiの洋服変わったよね」と言われるのもこの時からです。
自分の中で明らかに洋服に対する想いが変わった年でした。

カディプロジェクト 発足

2017年にはインド・日本の両拠点で生産ラインが確立し、アパレル事業の運営は軌道に乗ってきたのですが、洋服づくりの事業の流れの中でブッダガヤで雇用できる範囲に限界も感じていました。
洋裁の仕事にも向き・不向きがあること、都会のような近代的な環境とは違い土づくりの住居で、農業を営み、家畜と暮らす昔ながらの村の暮らしの中で、日本で販売できるような品質を保つことへの難しさなど様々な課題に直面し、改めて2015年ごろから地道に活動してきたことに本腰を入れる時が来たのだと感じました。
それは、インドの国を象徴する手紡ぎ手織り布「カディ」の糸を作る糸紡ぎの仕事をブッダガヤで生み出せないか、ということでした。インド人は糸を手紡ぎする能力に非常に長けているのではないか、そしてそれは村の暮らしに沿ったものであること、またインドの歴史を考える時、集中して糸車を回す瞑想的な糸を紡ぐ作業がインド人の理念と理想を実現する仕事なのではないかと感じていました。
遡ること2015年10月ごろに、グジャラート州・アーメダバードのガンジーアシュラムを訪ねた時のこと。そこでブッダガヤで糸紡ぎの仕事を作れないだろうか?とその場にいた男性スタッフに相談したところ、その声を聞きつけてある1人の男性が声をかけてきました。彼はなんとビハール州(ブッダガヤのある州)出身で、すぐにビハール州のカディ組合ガヤ支部(正式名称: khadi gramodyog bhawan)の代表に電話をかけてくれました。
ブッダガヤからは離れたこの場所で、このような出会いがあったことに大袈裟かもしれませんが奇跡を感じたほどです。
すぐにガヤにあるカディ組合を訪ね、代表のスニルさんにお会いしたところ、25人単位で糸紡ぎに興味のある女性のグループを集められ、また、その作業場があるという条件を満たせば、糸車は無償で提供される仕組みがあることを知りました。更に糸紡ぎで収入を得られるようになるまでの間、トレーナーを派遣してくれるとのこと。インドにおけるカディ生産の支援を生かしてブッダガヤでの雇用を生み出そう! そこから地道に調査を重ね、ついに足掛け3年後の2018年にカディプロジェクトを発足しました。
様々な困難をひとつひとつ乗り越えながらこのプロジェクトは現在進行中です。 本プロジェクトについては、“-明日を紡ぐ布カディ- カディプロジェクト “ として、別サイト(https://khadi-pj.nimai-nitai.jp)にて詳しく掲載していますので、併せてご覧ください。

これからのnimai-nitai

カディプロジェクトにより糸紡ぎの就労支援が軌道に乗るよう、現在は工房づくりを進めています。ハティヤール村の女性たちが元気に働く日も、もう遠くない未来です。
そして、ブッダガヤの縫製チーム、ハンドワークチームの技術力と、日本側でのデザイン企画の知恵を絞って、私たちチームにしかできない1枚を作り続けていくことで、ブッダガヤの雇用体制もさらに安定させていくことを目指しています。
雇用がない場所に、雇用を生み出すことへのチャレンジを、多くの方の力を糧にこれからも続けていきたいと思います。
nimai-nitaiの洋服も少しづつ進化し、変化していくことでしょう。
皆様に愛される一着を目指して…。
2020年4月
nimai-nitai 代表 廣中桃子